社会福祉施設・社会福祉協議会・社会福祉団体の役員・職員として
功績顕著で、
15年以上勤務している方
社会福祉施設は、高齢者施設、障害者支援施設、保護施設、婦人保護施設、児童福祉施設などの法令に基づく施設をいいます。これらの施設では、利用者を支援する介護員や支援員、保育士、医師や看護師、作業療法士、理学療法士、栄養士、調理師などのほか、施設や施設職員を支える事務職員など、さまざまな職員が活躍しています。
社会福祉協議会(通称:社協・しゃきょう)は、全国すべての都道府県、市区町村にある社会福祉活動の推進を目的とした民間組織です。各種の福祉サービスや相談活動、ボランティアや市民活動の支援、共同募金運動への協力など、全国的な取り組みから地域の特性に応じた活動まで、さまざまな場面で地域の福祉増進に取り組んでいます。
社会福祉団体は、社会福祉事業をおこなうもののうち社会福祉施設や社協以外の団体であって、県域や市町域の広い範囲において、社会福祉活動の推進等を目的とする活動に取り組む団体のことをいいます。
思いがけない表彰の御一報をいただき驚き、嬉しく思います。思い返しますと、社協評議員を昭和59年~平成23年の27年間、理事を平成23年~現在までの11年間努めさせていただいているお陰と思います。何も出来ていない私の今日ですが、今後も懸命に努力して参ります。
壱岐市においては少子高齢化若年層の島外流出等により核家族化の進展、社会的弱者の孤立、介護対策等多様な福祉課題により市民を取りまく環境は大きく変化しています。このような中、市民1人ひとりが幸せを実感できる地域社会の実現を目指して微力ながらがんばっております。
地域福祉に貢献したいと考えていた時、地域福祉協議会役員の推薦を受けた。
コロナ禍で地域の事業が出来なかったことや、以前町社協事務局移転の折責任者として介護支援センター設立等で悩んだ。以前敬老行事を行った時老人の方々から喜びの声が多く寄せられたときは嬉しかった。
学生時、保育園での職場体験をし子供と触れ合う楽しさを感じ保育士になる事が夢でした。
毎日の保育の中でたくさんの笑顔の子ども達と関わることが楽しくやりがいがあります。また『頑張ろう』とする姿や『出来た!』と喜ぶ姿に元気をもらっています。
この職業に就いて、子どもや保護者と向き合い、子どもたちの成長の支えになれる保育教諭でいたいと思います。
この度はこのような素晴らしい賞を受賞することが出来、本当に嬉しく思います。「子どもが好きだから」この保育士という仕事を選んだわけですが、その大変さにこれまで沢山悩んだり、くじけそうになることも何度もありました。そんな時でもやはり子どもたちの笑顔を見ると元気をもらい、同僚の先生方に助けてもらいながら、頑張ってこれたのだと思います。今の私があるのも子ども達、先生方のおかげです。これからも感謝の気持ちを忘れず、あたたかい保育ができるよう努めていきたいと思います。
保育する中で私の嬉しい瞬間は「優しさの連鎖」をみた時です。長く保育をしていると、小さかった赤ちゃんが卒園していく姿を見ます。その中で、泣いている小さい子により添って大きい子が声をかけたり励ましたり。そうしてもらった子が自身が年上になった時年下の子が困っていると助けていたり。優しくされた分、周りにも優しくしてあげられるのだなと、感じられる時、とても心が温まり、この仕事を続けているからこそ見ることのできる出来事なのだと思います。
子ども達と色々な体験をしたいと思い、この仕事に就き、早17年。その間に結婚、3人の出産をし、子育て真っ最中です。そんな中でもこの仕事に携われているのは、周りの方々の支えがあったからと感謝しております。これからも子ども達のために邁進してまいります。
児童センターは、幼児や乳幼児親子~小学生まで誰でも自由に遊びに来れる施設であり、乳幼児はもちろん小学生と遊びを通して関わることができ、毎日パワーをもらっています。
また遊びに来たいと思ってもらえるように日々の関わりや遊びの提供の充実を図り、子育て支援の拠点となるように努力したいです。
国家資格の取得を目指し、福祉の仕事につきました。悩む事も多々ありましたが、仕事にはやり甲斐も感じ楽しく働いています。利用者様との出逢いを通して、日常生活の大切さを学びました。最近家族様より「背中を押してくれて、ありがとう」という言葉を頂き、この仕事を続けて本当に良かったと思いました。
福祉の仕事は、知人に紹介されて興味が出て就いた仕事でしたが、今まで経験したことがない業務に携わり大変な毎日でもありました。しかし、職場の方を始め、いろんな関係機関の方々とのつながりが増え、一人ではできない仕事だと感じています。これからも周りの方に感謝し、丁寧な対応を心がけていきたいです。
以前は障害者福祉施設で指導職員として勤めていたのですが、移動により幼児園での勤務となりました。最初は、不安と緊張で戸惑いながら、子どもたちと関わっていました。しかし、月日が経つにつれ子どもたちから沢山癒されている事の方が多く、とてもやりがいのある仕事を頂き感謝しています。
幼少期近所には自分より年下の子どもが沢山いました。放課後は近所の公園で一緒に遊ぶことが多く、その中で一番年上だった私は自然と遊びを提案するなど引っ張っていく立場になりました。小さな子どもたちと一緒に遊ぶことはとても楽しく、その頃から将来は保育教諭になりたいと思う様になりました。子どもたちが様々な遊びや経験できるよう、沢山の引き出しを持った保育教諭になりたいと考えています。
高齢者の訪問介護から福祉の仕事を始め、その後、障がい者福祉の仕事に転職して現在に至ります。最初は、コミュニケーションがうまく取れず悩むこと、とまどうことが多かったのですが、一緒に過ごす内に段々と理解し合える喜びを感じ始めました。こだわりを持ったり、泣いたり怒ったり、笑ったり自分といっしょだと気付いたときに、気持ちが楽になり、気負いなく接するようになりました。
利用者様が楽しく、穏やかにより良い暮らしを実現するサポートが出来るよう看護の仕事に励んでいます。早い段階で利用者さんの異変に気づけるよう他職種と連携し、今後も利用者様、スタッフともに笑顔になれる職場づくりをしていきたいです。
私は学生の頃より、人と関わる、人の役に立てる仕事をしたいと思っていました。しかし高校卒業後は事情もあり全く異る仕事に就きましたが、自分がしたいことを諦めきれず、すぐにやめてしまいました。その時に、この道をすすめてくれたのが、同じ仕事をしていた母の言葉でした。母のすすめもあり福祉の仕事に携わるようになってからは、自分の関わりで本人、家族、色々な人が笑顔になってくれる。自分も人の役に立てる、幸せの一部になれるのだと非常に嬉しく感じています。福祉の道をすすめてくれた母にとても感謝しています。これからも、色々な人の笑顔、幸せを感じていただけるように、精一杯福祉に携わっていきたいと思います。
毎日、子どもたちの笑顔や「せんせいまたあしたね!!」の声に励まされ元気に仕事を続けられていることに感謝いたします。子どもの世界について知りたいとの思いでこの仕事に就きましたが、日々子どもたちと過ごす中で子どもたちの素晴らしい感性や様々なことを吸収して成長していく姿に大きな感動をもらっています。
私は障がいを持った子どもたちの保育士になることが夢でした。15年前壱岐市社協の郷ノ浦事業所に日中一時支援事業のジュニアデイサービスが誕生し保育士としていろんな特性を持った子どもたちとの支援に携わることができて、夢が叶い充実した時間を子ども達と過ごす事ができました。そして今日までに放課後等デイサービス、通所介護の業務を携わらせて頂き、また日中一時支援と、子どもから大人の方までの支援を幅広く経験させて頂いてます。これからも目の前の利用者様、家族と笑顔あふれる時間を一緒に楽しく過ごしていきたいです。
利用者様から「デイサービスへ行く日が待ち遠しい」「デイサービスでしか、こんなに笑わないよ」「いつもありがとう」と言ってもらえるだけで、この仕事をしていて良かったなぁと思えます。
近くで介護講座の開催があり、社会体験の為、参加したのが始まり。人間関係、体力的、制度の見直しに戸惑ったりもしましたが、介護技術等の研修や講習会など、貴重な体験も出来ました。
祖母が寝たきりとなり介護が必要になりました。何も分からないまま家族で介護生活。その当時はまだこのような支援もなく大変でした。これからは必要なことと思ったことがきっかけです。コミュニケーションが苦手で悩みも度々ですが、この仕事が一番続いています。同僚にも恵まれ仕事をさせて頂いています。
私は現在、障害分野で相談支援に携わっています。利用者様の希望に沿った生活の実現や、利用児様の発達や成長のお手伝いをさせていただきたいという思いを持って、日々仕事に取り組んでいます。仕事をする上で悩むことは多々ありますが、利用者様の本当の気持ちや希望、要望を引き出すこと、そこに至るまでの関係作りには難しさを感じています。逆に信頼関係ができ、喜びや悲しみ、悩みを共有したり、状態が安定してきて表情豊かに生活を送っている様子を目にすると嬉しくなります。そのような出来事や利用児様の成長がやりがいに繋がり、日々の仕事の活力となっています。これからも初心や学びを忘れず経験を積みながら、スキルアップを図っていければと思っています。
この仕事に就くまで認知症の方との関わりがなかったので、驚きの連続でした。対応の仕方には悩まされます。施設に通ってくださる皆様が元気で生き生きと毎日過ごして下さる事を願い少しでも手助けが出来れば幸せだと思っています。
介護の仕事をさせていただく上で人と人とのふれあい、また思いやりの大切さや、お客様の笑顔によってどんなにしんどくても、“がんばろう”と思います。これからも、少しでも皆様のお手伝いができるようがんばりたいと思います。
民生委員・児童委員として功績顕著で、15年以上在職している方
民生委員は、誰もが安全に安心して生活できる地域づくりのためのボランティアとして活動しています。
地域で生活している住民の一人として、住民からの困りごとや心配ごとの相談にのり、助けてくれる人や場所を紹介する「つなぎ役」としての役割を果たしており、全国で約23万人、長崎県内では約3,600人が活動しています。民生委員は子どもや子育ての困りごとの相談にのる児童委員でもあります。
前人の方の急病で急きょお引受けすることとなり、何もわからずでしたが民生委員の方々との話題共有、友愛訪問などでの関わりなど人との関わりは社会とのつながりであることを感じています。
自治会の会長さんからお願いされ軽い気持ちで引受けましたが実際に活動してみると大変なことも多く、生半可な気持ちでは続かないことがわかりました。しかし永年活動していると友愛訪問している高齢者から感謝されることも多く、やりがいを感じている。
前任者が病気になられた為民生委員になりました。
買い物の途中倒れている本人と出会い、救急車で本人についていきましたが、3~4時間病院にとどまられた時には困りました。
訪問するのを待って下さっている事が嬉しいです。
前任者の都合で、急に私が引き継ぐ事になりました。書類が何にも無い状態での活動でしたが、良き仲間に恵まれ、研修会、勉強会、友愛訪問他、目新しい事ばかりで、とても勉強になり何より楽しかったです。ここに表彰される事は、私も誰かの役に立ったんだなあと思い、自分なりに満足し、支えて下さった方々に感謝致してます。
20年前“ふるさと”福田に移り住み、5年後に民生委員のお話しをいただきました。昔を振り返れば事ある毎に地区の方々には大変お世話になりました事を思い出し、家族の応援もあり15年。至らない点も多くあったと思いますがこれからの老後生活によりよい指針を戴けた事を大変嬉しく思います。
今後共どうぞよろしくお願い致します。
年令で任期切れとなる前任者の後任を自治会長から依頼されたことがきっかけ。
友愛訪問していた身寄りのない人が入院する時、病院から身元引受け人がいないと入院できないと言われ、身元引受け人になった。ひんぱんに病院からすぐ来るようにと連絡があり、何度もタクシーでかけつけなければいけなかったときは悩んだ。
「こんにちは赤ちゃん訪問」でお母さんの嬉しい笑顔を見たときが嬉しい。
民生委員になって友愛訪問に始めて行った時、返事はあるものの玄関まで出て来ることはなく何回も足を運ぶうちに徐々に心を開いてくれるようになり、たまに笑顔で話されるようになった時は報われた思いで頑張って良かったと思いました。
地区役員の方からのお話で民生委員となり15年になります。一人住まいの方が多く、お年の方達の相談など悩みを聞き、一日過ぎる時もあり、ごみを片付、畑の草取りなど、大変なのは救急船の付きそいで長崎の方までいき、大変な事が多かった。でも一番の救いは、ありがとうと感謝された時でした。頑張りたいと思っています。
15年前の一斉改選時に退任者後任として自治会より推薦を受け、委員を拝命。短期の予定が長期(75歳定年まで)になったが、家族の支援に支えられたと感謝。委員制度は知っていたが馴染みが薄く、現在でも委員制度の積極PRの必要性を感じ、地域での活動目標に掲げ取り組んでいる。モットーは「恩返しの姿勢で」。
自治会と違い委員は住民全員を支援対象とするが、問題を抱えた方々と接するケースも多く、個人情報保護と守秘義務とのバランスを取るのが難しいと感じる。
活動の中で嬉しかったのは、地域の方から活動に対し「ありがとう」と感謝の言葉を戴いた時。苦労が報われた気がします。
会社退職と同時に(15年前)委員の方がご病気になられたとの事でお話を頂いて何も民生委員のあり方がわからないまま、引き受けて、15年間も続けさせて頂きました。これも会長さん始め他の委員の方のご配慮のおかげだと思っております。ありがとうございました。
ここ2~3年コロナのなか訪問が出来ない日もありました。時々お会いした時「あら来てもらってうれしい」と笑顔が見られた日は、嬉しかったです。
3年近く地区福祉活動が全く出来ない状態が続く中、感染状況が緩やかになる事で8月~9月とふれあい食事会が開催致した中で感じた事は通常開催と比べた参加する高齢者の数は少なかったけど久しぶりの再会で元気で参加頂いた皆さんの笑顔を見るに喜びを感じました。
<地元の甚句を作ってみました。皆様もいかがですか>
戸町民児協甚句2019年7月10日作前田隆祥
戸町民児協甚句に詠めばヨドスコイドスコイ
わが故郷戸町は不揃い階段狭い道
月に数度の訪問は一人暮らしに高齢者
ときには赤ちゃん訪問と悩みや苦労に寄り添って
相手目線で会話して子供達への配慮は
安全安心事故もなし元気に育つ戸町っ子
いろんな行事に定例会連絡事項に体験談
仕事の話はこのへんで年に数回懇親会
酒はホドホド歌や愚痴
見廻り声かけ活動は地域に弱者を出さぬよう
「よく来てくれたありがとう」声を聞いての満足は
これがア~民児委員ヨホホイア~ア~姿アーですヨ
15年前、ボランティア関係の仕事をされていた方のすすめで、お引受けしました。不安でしたが、少しでも地域の為になればと決心しました。当初は、諸々の対応が分からず、福祉課や先輩の方々からアドバイスをよく受けたものです。人の為になったかどうかわかりませんが、今では私にとって多くの経験ができたことたいへん感謝しております。
民生委員の役割の詳細をあまり知るよしもなく携わる事になり、当初不安でしたが、地域で身近なボランティアである事に気付き微力ながら少しでも社会奉仕ができたらと思いました。「赤ちゃん訪問」の際赤ちゃんを愛しそうに抱いて対応して下さった若い母親の皆さんへ「子育て大丈夫ですよ。頑張って!」とエールを送りながら親子の幸せを願いつつ心も晴々。また高齢で1人暮しの方々の訪問に関しても「いつもありがとう」の笑顔の声に支えられ人生の先輩方から多くの人生観を学びました。無知な私は、民生委員活動で多くの人々との交流を通していろいろ学ばせて戴きました。
友愛訪問で多くの高齢者に出会い、単に弱者、保護対象者と考えるのは間違いではないかと思うようになりました。
多くの方が苦難と悲しみ、喜びに満ちた人生であり90代100才前でも凛として自分の体験を語られた姿は、私自身、お手本にすべきと自然と頭がさがります。民生委員として私の方が、教えられる事が多かったと感謝しております。
何もわからないままで、民生委員になって、あっという間の15年間でした。回りの優しい仲間に助けられ、友愛訪問の時、高齢者の方に貴重な話をしていただき、私にとって意義のある15年間だったと思っています。
自治会長と前任者の推薦により、任命され15年になります。私の担当地区は、私が生まれてから74年間住んでいる地域なので活動は皆さんの協力もあり、スムーズに進んでいます。中には訪問する際に言葉を選びつつ意思疎通をはかる事が大変な高齢者さんもいますが、「ありがとう」の感謝の言葉を励みに活動していきたいと思います。
地域の先輩に勧められて何も分からぬまま足を踏み入れましたが「優柔不断なこんな私が成って良かったのか?」といつも思いながら15年になりました。会長職を拝命してからその思いは一段と強いです。今後も後ろ指を指される事がない様に努力して行きます。
退職して主婦業に専念と思っていた時、前任者よりお話があり私も微力ながら地域に奉仕、協力出来ればと思い引き受けました。
活動で悩んだ時は地区会長、地域包括支援センターに相談助言を頂いています(認知症など)。
友愛訪問をし、「お変わりないですか」とお声かけをしてお話します。私に「無理しないで・・」・と逆にお声を頂き、「反対ではないですか・・・」と笑いながら話します。嬉しく思います。私は必ず最後に「何か気になる事は遠慮なくご連絡下さい」と言って帰宅します。最初の頃は玄関ブザーを押し「こんにちは」とドキドキしながらお声かけをしたことをなつかしく思い出します。
学校役員から地域の青少年育成協議会の事務局に携わっていた時に、主任児童委員の声掛けをいただきました。常々自分の子どもたちは地域で育てていただいたと実感していましたので、子ども達のことでお役にたてればとお受けしたのがはじまりです。現在は主任児童委員を譲り民生委員として活動しています。地域をまわり、一人暮らしの方に声掛けをしながら、自分が本当に地域の住民の一人になった実感を味わっています。これからも皆さんと共に、いつもと変わらない住みよい地域を目指して頑張りたいと思います。
民生委員をお引き受けした時点で「石の上にも10年」と覚悟を決めて毎日の活動に取り組んできました。気がつくと15年の月日がたっていました。それでもまだ充分に力を発揮できなかった自分に反省しています。しかし地域の方から「ありがとう」の笑顔を頂くと必要とされているなら微力ながらもう少し頑張ってみようかと思っている今日この頃です。
表彰をして頂き、ありがとうございます。民生・児童委員を引き受け15年、なったきっかけは、この地域に引越してきて20年、地元に恩返しの気持で引き受けました。今の所活動で悩んだことは、ありません。友愛訪問で、感謝される事が嬉しいです。今後は、私も高齢化地域も高齢化し、活動が大変になると思うが任期定年まで頑張る所存です。
民生委員になって、あっという間に15年、仕事を辞めて、何もしていませんでしたので、これからの人生、人の為に何か出来るならとお引き受け致しました。何かあった時、相談出来て安心した声を聞いた時、ああやっていて良かったと思いました。
同地区で長く活動された前任者の定年退職を受け、後任としてお引き受けしました。相手とコミュニケーションを取るコツをつかむのに悩みました。が、赤ちゃんから高齢者までの訪問活動を通じて幅広い交流を深めることができました。地域の方々が、健やかに過ごしておられることが何よりの喜びです。
民生委員になり手がいないと知り合いの会長が困っていたので引き受けました。どこまでその人の生活に入り込むのかと悩んだが、会長から声かけ、包括につなげと言われた。顔を覚えてもらったり、名前を覚えてもらうのに色々な所(会議、活動)に出席したり参加したりした。今ではサロンなどに参加して、私自身も楽しんでいます。
民生委員・児童委員になったきっかけは、長年地域に功績のある自治会長様からの強い要請が発端でした。
当初はとても重責に思えてためらいました。しかし、健全な地域環境作りの一端に関わる活動に携わることが、わが子を育んでいただいた地域への小さな恩返しのつもりでお引き受けいたしました。
とはいえ、まだ在職中でしたので活動と仕事の両立がままならず、表面的で手ごたえのない活動をするだけで年月が過ぎていく現実に自責の念が募り、早く退任したいという思いだけが強くなっていきました。
しかし、誠実に地道に献身的な活動を継続する先輩との出会いや活動仲間との信頼関係。子供たちの明るい笑顔や挨拶に触れる機会が多いこと、感謝の言葉を頂くこと。こういったことが励みや喜びになり、これまで続けてこれたと思います。
幸い、年齢を重ね、時間のゆとりも出来た今、もっと頼りがいのある民生委員・児童委員になるための研鑽や経験を重ねなければと思います。
困った人や手助けの必要な人のために微力ながらも自分の時間と心を使わせてもらえることに誇りを感じます。
離れて暮らす母が長年ひとり暮らしをしており、人との関わりの大切さを痛感させられました。
地域に暮らす高齢者の支えとなる活動が出来ればと思い、友愛訪問など続けています。訪問を楽しみに待っていてくださる方もあり、心を通わす喜びを感じています。
自治会役員を長くしており、自治会長より勧められて主任児童委員に。
赤ちゃん訪問や学校での問題行動で悩む保護者から相談されて行政や学校とのパイプ役になれた時や、ご近所の高齢者から相談されて地区の民生委員に連絡して、安心された時に良かったと思いました。
前民生委員から後任がどうしても見つからないのでと相談され引き受けた。こんにちは赤ちゃん訪問では男性なのでおかあさんから警戒されることも多々あった。色々と相談され、それを解決したときの達成感と感謝されたとき。
会長から声がかかってから15年がたちました。年々、民生委員の活動が多くなり、仕事しながらの活動は大変です。地域で少しですが顔を覚えてもらったような気がします。これからも頑張って活動しようと思っています。
友愛訪問の安否確認では、色々な性格の先輩方がいらっしゃいます。その方々に合わせてつき合っていけたらとお思っております。少しづつ会うたびに、笑顔がみられる様になり、お声がけを頂くとやはり、うれしいです。
民生委員の活動を通じて、多くの地域の方々と知り合う事ができました。小さなことでも何かお役に立てていれば幸と思っています。ただ、今でも初めてお会いする方のお宅を訪問するときは、ドキドキして大きなストレスを感じます。何年たっても慣れないものです。
2003年に主人の両親との同居生活となり、今の地域に引越して来ました。しばらくして、自治会長さんより民生委員をと言って頂き、まだよく知らない町内でできるだろうかと不安でした。少しずつ独居老人宅を訪問する中、写真でしか知らない、主人の祖父母の話が聞けるようになり、嬉しくなったりして、このお仕事を続けさせて頂こうと思い、今に至っております。
15年表彰ありがとうございます。47歳から民生委員を引き受けましたが、不安で、私でいいのだろうかという気持ちで活動していました。歳月がたち、皆様のやさしさにふれなんとか、今にいたっております。人生の先輩方々から、沢山のお話を聞き、役にたてるかわかりませんが、頑張っていこうと思っております。
同居の両親の介護をしていたので一人で困まっている方のお手伝いが少しでもできたらと思いました。そして介護者を支える家族に寄り添うようにしてストレスをかかえた家族が”スー”となったと、笑顔を見るのが嬉しかったです。独居さんの”ありがとう”の言葉も嬉しい限りです。
学童保育の指導員をしているため、「子供にかかわる仕事」と言うことで主任児童委員をさせていただいています。地域の中で、赤ちゃん訪問、お遊び教室、子ども茶道教室などの活動をしています。子どもを育てる事は本当に大変なことです。少しでもお手供いができればと思って、活動しています。
前任者の方からお話しをいただき子どもの頃から育てていただいた地域の方々に思返しができればと思い引き受けました。微力ではありますが”ありがとう”の言葉をはげみにこれからもがんばっていきたいと思ってます。
主任児童委員を務めさせて頂き、早15年。会社に勤めながら、子ども達のために努める。本当に私の働きが、務まったのか、日々勉めて参りました。これも勤めだと思い、これからも力めて参ります。
毎朝、通学路にあいさつ運動に立っています。ある日、用事があって休んだ次の日子ども達から「なんで休んだと?」と声をかけられました。その時はとても嬉しくなり目頭が熱くなりました。
早いもので、民生委員・児童委員を受けて15年、苦しいこと、又楽しいことが毎日有りました。苦しいことが有っても、毎日、毎日子供達の集団登校を20年間余り続けていると子供達の笑顔を見るたびに苦しいことも忘れて、子供達と一生懸命がんばってこられたことは、私の一生の宝物として、今後も出来る限り協力をしてまいりたいと思っています。
退職して海外旅行にばかり行ってましたが、町内会長さんから話しがあり半年考えましたが、誰れもいないとの事で受けました。最初の頃は安否確認で独居の方の訪問時、孤独死に4件会いました。最初は何が何だか分かりませんでしたが、15年間楽しく活動してきました。
生まれ育った地域の民生児童委員のお話しがあった時、認知症の症状のあった義母を看取ったあとでした。町内の皆様は長年住んでいるので知っている方が多かったので自分の経験を生かして役にたつならと受けました。活動の中で子育の際は勤務の都合上、学校行事等の参加が出来ませんでしたが放課後ボランティアでは子供達とコミュニティがとれてたのしかったです。
活動をしていくなかでいろんな人と出会い、たくさんの講演会にも参加し、勉強になる事ばかりでした。健康にも気を付けるようになったし、自分自身を少し高められたかなと思っています。
結婚当初から約30年間同居していた義母が老衰の為死去後、民生委員のお話しを受け、義母が地域の皆さんや民生委員さんにお世話になったご恩返しのつもりで引き受ける事にしました。介護保険申請のお手伝いや福祉資金の相談を受けたり、近所の子供が虐待にあっているのではないか等々。地域の方々とのふれあいにより人生の勉強になりました。
地域の方々とのふれあいの中、色々な世代をつなぐ役割を果す事ができたかどうか!今振り返っても無我夢中で過ごした任期期間でした。
地域の生活困り事支援のお手伝いをさせてもらいながら感じた事は、挨拶やちょっとしたふれあいを続けていくうちに皆さんの表情が「楽しい・嬉しい・待ってます」と言うことばと共に明るい笑顔が増えていき私の方が元気をいただくことが多くなりました。
これからも地域に密着した住民同志の顔が見える生活支援ネットワークづくりを手伝って行きたいと思います。だれかの「困った・・・」を「良かった!!」を合いことばのもとに!!
いつのことか思いだせないけれど、退職して孫の面倒を見ているときに、家族ぐるみで付き合っていた副町長夫婦が「ここの地区の民生委員になってほしい」と声をかけられました。「母と相談してから返事するから」と、母に「民生委員になってほしいと相談されたけどどうしよう」と相談したら、母は自分が福祉資金を借りて商売をやってきたことを話してくれました。その恩返しが自分ではできないけど「あんたが少しでもやってくれたら少し肩の荷が軽くなるかもしれない」。母の一言とあと押しで引き受けました。
民生委員児童委員をやってきたことで、私は人と人とのつながりの大切さを知り多くのことを学んできました。
お世話になっております。この度は私如きにお気遣い誠に有難く存じます。謹んでお受け致す所存でございます。きっかけは、私が地区長や学校の会長役員の経験が推薦になったように思われます。活動の悩みは訪問などで個人情報保護法で身構えられた事や不登校の事でした。でも不登校生が楽しく登校した事、悩み事を話してくれた事、皆の笑顔を見た時は嬉しくなります。少子高齢化と云いますが子供は世界の宝、大切に育んでいきたいと思います。本当に有難うございます。
町内会長のたっての希望で一期のみの条件で受けたのですが結果5期頑張らせていただきました。町内外の色々な方との出会いがあり、多くの学びもあって自分の為にもなったのかなと思っています。地区の皆さんに御世話になりありがとうございました。
15年前の江迎町時に突然の役場職員より民生委員になって欲しいとの依頼で民生委員になりあっと言うまに15年が過ぎました。活動中には受け持ち地区でも見守りをお願いしてた独居高齢者の孤独死等に立ち会ったりした時など悲しい事も多々有りましたが、皆さんがお元気で毎日を過ごされている事が一番嬉しいです。
隣に住む当時の地区長さんに声を掛けられ友人もやっていたので引き受けました。
普段の活動はメンバーの協力が有り悩む事は殆ど有りませんが今年の様に改選となると大変むずかしいです
介護で悩む家族から相談が有り次へつないで喜ばれた事は嬉しかったです
前任の方が一身上の都合でおやめになる時、公民館長をしていた父に相談に来られ成り行きで私に回ってきました。
仕事をしていることもあり、時間に制約があり十分に活動ができていないと思われることが悩みです。
活動する中で嬉しいことは、白南風地区民児協の皆さんと一緒に活動できること。訪問したり、事務(証明)したりした方が道で会った時にあいさつをしてくれること。
長く登校見守りをしていると子供の成長の早いことにびっくりします。高校に通う子を見てついつい「何年生になった?」と聞いてしまいます。お腹にいた子が小学校に登校してきたり、うれしいばかりです。あと何年できるかわかりませんが毎朝、子供の顔を見るのが大好きです。
時代や環境・人々とのつながり方が日々変化する中で主任児童委員として出来る事と求められる事の関係性が複雑になり対応が難しくなってきている様に感じるが携わった子どもたちが成長しても挨拶をかわしてくれる事が嬉しくこれからも自分の出来る事を見つけ積極的な活動を続けて行こうと思います。
PTA役員として、地域の行事等に参加する様になり、主任児童委員の声がかかりました。悩んでいる私に推薦して下さる方から「人生、勉強よね」の言葉を頂き、現在に至ってます。
地域の皆さんの為に何かお手伝いをと「私に出来ること。」ずい分と悩み考えましたが、思いきって引き受けました。現在は、私が出来ること。をいつも心の中におき活動しています。児童登下校見守りの際には、これまで何事もなく子供達が楽しく登下校している様子、成長し、ふたたび声を掛けてくれる時は、嬉しいかぎりです。
15年前、福祉課の方から連絡があり、お受けしたものの、その活動内容など何も知らず、不安でいっぱいでした。経験もないのにいきなり「主任」という言葉がついていることを、とても重く感じていましたが、経験豊富な先輩方のお導きのもと、地元に繋りながら活動しています。活動する中で嬉しかった事は、多くの方との出逢い、そして、出逢った方々との楽しい活動が、私の心を豊かにしています。
尊敬する先輩から、どうしてもお願いしたいと言われ、役を引き受けることになりました。地域の高齢者の方々のお役に立てればと、民生児委員の皆さんの協力を得ながら、地道な活動を続けて参りました。訪問時にお互いに顔を合わせること、お話ができることが、活動の喜びに繋がっていると思います。役に立てる活動ができる限り、頑張り続けていこうと考えております。
自治会の総会で前の方が民生委員で町内会長になられたので、誰かいないかと探しておられ、私に指名がかかりなりました。民生委員とはなんぞえと思い、気軽に引き受けました。1~2年間は町内の方を把握するのに大変でした。それから15年間やってきましたが、充分にやってこれたかはわかりません。ありがとうございました。
「民生委員活動は、大変な事もありますが、それ以上に学ぶ事が多いです」という、前任者の方の言葉に後押しされ、引き受けました。実際活動していく中で、大変に思う事もありますが、少しでも地域の為に役立つ事が出来たらと思い、又、自分自身の学びの場と思いながら、活動しております。
私が民生委員の任命を受けてから15年の年月が経ちました。
当初は戸惑いながらの活動でしたが、高齢者や一人暮らしのご自宅に訪問し、お困り事や悩みなどをお聞きしながら私も学ぶ事ができました。
また講習会などで認知症の方への接し方を学び、福祉の方や民生委員の仲間の意見を聞きながら一人で悩む事なくサポートする事ができました。
この活動ができました事も周りの人達や家族の協力があったからだと思います。心より感謝いたします。
今後も地域の方々とコミュニケーションをとりながら日々を過ごしていきます。お世話になった方々、15年間ありがとうございました。
前任者の都合で打診されて、その時、福祉協力員を10年間程していましたので引き受けました。義母(姑)が地元の人で色んな事で情報を教えてもらっていたので、家庭環境がわかっていたので活動はしやすかったです。
災害時の避難の方法で独居の方への送迎はいつも迷います。
「ありがとう」の言葉、「助かりました」の言葉が嬉しいです。
私の担当地域では、人口減少が著しく独居・老々家族での生活者が多数いらっしゃいます。その道程には、地域の伝統文化を継承しつつ、私達に対しての指導見守りにと尽力していただきました。その先輩・同輩の皆さんに今回の受賞を期して、感謝の気持を表したいと思います。
子育ても一段落していたところに、民生委員のお話(相談)があり、地域で何か役に立てればとお受け致しました。地域での声かけ、見守り行き届いているのか,心配でした。サロン活動を始め卓球、カラオケ、フロアーカーリング、頭と体を動かし昔話に花が咲き、笑い声があり楽しんでもらえる事です。
食のボランティア活動をしている時、保健師さんにお誘いを受けました。
15年間で一人暮しの方が増えられて、近所トラブルもあり、心をうちとけて頂くのに月日がかかりました。
私が活動できたのも地域の方の協力と家族の理解があったからだと思います。人とのつながりの大切さを経験し、たくさんの感動を頂きました。
民生委員になったけっかけは、退職後依頼され、今迄は仕事中心の生活で地域への協力もあまり出来てなく、今後少しでも地域に協力出来る事が、あるならと思い引き受ける事にしました。15年間も児童から高齢者の方方への行事や支援に携さわり色々な勉強もさせてもらえたのも皆様に協力して頂いたお陰と感謝しています。
当時の自治会長、市の担当の方と訪問され何も考えずに委員になっていた。
当時はまだ現役で会社の仕事(定例会)との関係で大変でした。
委員になった事で、幅広い人間関係出来勉強出来ており、楽しいですよ。
自治会長より要請が有りお引受けることとなりました。
要援護者登録台帳を作成することに少し苦労をしました。しかし皆さんと接する度に担当地区の方が話し、声をかけてくださることで、今まで知らなかった地域のことが良く分かりまた知らなかった福祉の事も勉強させてもらいほんとに良かったです。
私達には、守秘義務がある。その中で地域の皆さんから来る話しは、苦情である。それを搔い潜り地域の皆さんにご指導を仰ぎ、ご協力して頂く時こそ冥利に尽きる一時であり、私のやりがいでもある。生涯学習のひとこまと成る事を自負しています。
民生委員という名称との出会いは、昭和62年知的障害者更生施設開設の案内状の宛名書きの時でした。
数年後、自治会より依頼があり、お引き受け致しました。地域の中で、私自身が生かされていることを実感させてもらっています。
気軽に信頼をして相談に見えられる窓口となるよう努力したいと思います。
主任児童員になった当初はPTA役員だったため、学校へも、よく足を運んでいた。自分の子どもが卒業すると急に行く機会が減ってしまい、どうすればよいか悩んだりもした。しかし、校長先生方に会うために電話等で連絡すると、いつも気軽にあたたかく応対してくださり、高くなりかけた敷居が、また低くなるのを感じて嬉しくなった。「子どものために」という気持ちが同じだと、いつも感じる。
これまで活動してきた中、地域の方々、民生委員の仲間の方、協議会の方々から沢山の励ましや、優しさを頂きました。人が幸せに暮らしていく中で、社会福祉という大きな愛に支えられ、与えていく活動に関わっている事を大事にして行こうと思います。《縁の下の何とか?》になれるよう、もう少し頑張ります。
前委員の勇退に伴い、不安を抱えつつ民生委員になりました。
全く知らない地に来て、なかなか地域に馴染めず、打ち解けられず考える日もしばしばありましたが、見守りや振れ事をするうちに、気が付けば上がり込んで時間も忘れて話込むようになっていました。しぶしぶとなった委員ですが、今までは地域の人はもちろんの事、民生委員の活動を通じて出会えた数々の人に、月並みですが感謝の気持ちでいっぱいです。
きっかけですが、15年もたってしまいわからないまま時だけが過ぎてしまいました。悩んだ事ですが、いまだに時々悩みます。でも人とかかわっていく事はとても好きです。嬉しかった事は、一言では言えない程たくさんありました。もうしばらくみな様と時を過ごしていきたいと思います。ありがとうございました。
高令者の皆様が老後を若々しく生甲斐を感じ楽しい人生を送られる事を目指し、民生委員になった。
高令者の皆様の奉仕作業や食事会など参加集まりが少なく、老人会員の欠席者の方に行事等への不参加についてお話しをすると、老人会は名前だけで良いのでと入会の誘いであったと話されたので、その後は文書で趣旨を記載し周知する様にした。文書を出すことで参加者も増えた。
老人会の行事に参加者が、少ない事から行事に取り入れた事は温楽、花見、日帰り旅行など事前に取り入れた事は、会員の調査し、老人会長と話し合い多目的に運営することによって今では会員の方も一つ位は参加しようと意識の変化で成果を上げている。
退職2年後に、前任者よりお願いされ引き受けました。地区内では少子高齢化が進み、一人暮らしや老夫婦の家庭が多く地域での助け合いが重要視されています。住民の健康や幸せを願い、「お互いが助けたり・助けられたりの気持ち」で活動してきました、高齢者宅の訪問では心待ちしてくださる方も多く、いろんな話ができて楽しかったです、
民生委員になったきっかけは、前任の知人の転職を機に引き受けた経緯があり、その後、児童委員と合わせて活動してきました。活動を通して当初より過疎化、高齢化の現実はありますが、安否確認、見守り等のための訪問、あいさつ運動等、増々地域の方とのふれあい、声かけの必要性を感じつつ、喜びをかみしめてます。活動の山積みはありますが、目の前のやれる事を一歩一歩がモットーです。
きっかけは、仕事の帰り、市役所の人に保育士の資格をもっているから是非!!と言われ、断われないまま現在に至っています。その時から15年間、今も市立保育所で(対馬市日額会計年度職員)働きながら、主任児童委員のお手伝いをさせてもらっていますが、なかなか思うようにならず、何度やめようかと思いながらきました。
活動での悩みはやはり仕事をしていることで、いろいろな活動や会議に出席できない事が多々あり、申し訳なく思っている事です。
嬉しかった事は、子ども達に声をかけられたり、がんばってるねと励ましの言葉をいただいた時です。
こんな私でも役に立っているのかなと思いながら、今まで歩いてきました。
そんな私を表彰にあげていただきありがとうございます。
前民生委員さんから依頼されたので引き受けました。他地区の同級生から朝早くから身体的な相談で夜遅くまで一日に5~6回のTELが1ヶ月近くあり大変な時期がありました。
嬉しかったことは、台風の時に避難場所まで車で送り迎えして喜んで貰ったことです。
関東の会社で40年勤務、定年で親もとに帰り、何彼か五島で御手伝い。出来るものは無いか、と考えている時、前民生委員の義弟に紹介されました。
幼稚園で定期的に紙芝居をしているが、コロナ鍋のため訪問できないのが悩み。
近所の家主より店子が腰を痛め4~5日食事をしてないとの連絡。話し合い後、社協連絡対応が速く即入院することが出来たときは嬉しかった。
きっかけは町内会長さんからの強いさそいが有りました。悩んだことは、子供さんが親の話を聞かないでくれと言われましたが、本人は人との話を喜んでいました。でも何度も話しているとわかって下さいました。私は他から来てるので町内の皆さんと話が出来うれしいです。
前任者である主人が辞任しその後推薦されて民生委員になりました。
離島での活動の中で悩んだことは、特にありません。世帯数23世体の地域であり事例も特にありませんでした。
嬉しかったこと、小さな島での活動は少ないですが、聞き取り調査等の時に助かりました。ありがとうございました。と感謝された事です。
私が主任児童委員になったきっかけは、保育士の仕事を辞めた後も、地域の子供達との繋がりが欲しくてお引き受けしました。赤ちゃん訪問、子育て支援、多くの学校行事に参加させて頂き、子供達と触れ合えたことは、大変嬉しく楽しい時間でした。今後も子供達の成長や活躍を見守り応援していきたいと思います。
あっという間の15年でした。民生委員児童委員の「み」もしらなかった私が、市外の方たちと研修を受け交流することで、多くの人との出会いと子どもや保護者の置かれている環境を知ることができたのはとても学びになりました。何も知らないより知ることで後は自分次第ですね。「どう生かすか。」まだまだ未熟ですが、主任児童委員になったことで人として少しは成長できたでしょうか。
お相手があっての活動ですので、寄り添う事には限度があると感じた事もありました。そんな中でも、程良い距離感でお声かけを継続していると、「いつも、声をかけてくれたので、とても支えられました」と言われることもありその言葉に支えられて今日まで、活動を続ける事ができました。
前任者が体調を悪くして、時の郷長より頼まれて、民生委員、児童委員になりました。
悩んだのは、人間関係をいかに保つかと、25年間務めた地区の神社の常守りとの業務(5月で退任)。
地区の人の心ある言葉、が嬉しかった。
自治会の中で高齢者世帯や一人暮らしの方が増える中で、自治会の役割や班長が順番に回って来ている事に不安を感じ、支えあう自治会を目指そうと思い、皆さんに話したら民生委員を推薦された。しかし自分にできるのか不安もあった。先輩方に教えていただき徐々にでは有ったが高齢者の方とか若いお母さん方と話ができるようになり訪問時の笑顔が一番嬉しいです。
私はまだ勤めていますので、月1回程度の訪問がやっとですが、相手の方といろいろ話をして、帰り際に「気にかけてくれてありがとね!」と言われると、ああ良かった、ととても嬉しい気持ちになります。
長崎市より国見町に引越して、5年位した時、前任者の方から民生委員の話があり、とても出来る仕事では無いと思い、何度も断り続けて困っている時、家内から引受けて見たらと後押しされ、何も分ず引受けてしまいましたが、民生委員の仲間の方、それに地域の皆さんと顔見知りになり、頑張りました。少しでもお役にたてたなら幸いと思っております。
何かお手伝いが出来ればと思い引き受けました。私は民生委員だと自分に言い聞かせ、地域の方に寄りそい、世間話でいいからすすんで話しかけ、笑顔が返ってくる、それだけで委員としての人生15年間かけがえのない活動だったと思っています。仲間の皆様に感謝致しております。
思いもかけず民生委員をお引受けし一期のつもりが五期も務めさせて頂きました。活動中の悩みといえば、どこまで踏み込んだらいいのかということでした。踏み込みすぎると相談者や家族を傷つけることにならないか。見て見ぬふりは出来ない。そんなジレンマがありました。そんな中で問題が解決した時は本当にホッとしました。そして何よりも悩みを相談出来る民生委員の仲間は心強く頼もしいものでした。
去年緊急通報装置を取り付けてからしばらくして「玄関の外でつまずき歩けなくなったのでコールセンターへ電話したら、救急車が来て病院へ。それから弟と長崎の娘もすぐ来てくれて、たいへん嬉しかったと、母が言ってました。民生委員のおじさんありがとう」と言われて嬉しかった。
民生委員のお話を頂いた時、父に相談したところ、今までたくさんの人に支えられてきたから、これからは支えていけるような人生になるように勉強(努力)しなさいと言葉をかけてもらい決断しました。
お世話になった皆様、地域の皆様に少しでも恩返しできればと思い活動しています。
民生委員について5期目も終わりになりますが、着任したばかりの時は、不慣れでよそよそしい態度で距離を感じていましたが、今では玄関先での親しい会話がとても嬉しく思います。
役所からの要請に二つ返事で引き受け、これまで(15年間)続けて来れたのは、皆様方のご支援、ご協力のおかげと感謝の気持ちで一杯です。良かったのか悪かったのか、自分では判断出来ませんが、笑顔で迎えて下さる訪問先の方々を伺うと言うより、今となっては、色んなことに気付かせてもらい、又励まされたように思います。
悲しいことは後任の民生委員が見つからないことです。支所長共々沢山の方々にお願いしてみるもOKを得られず私も高令故に今後が心配です。
事務局の担当者の方から欠員が出たが後継者が見つからないとの願いが有り、会社務めも定年になると事で引受けました。
自治会長さんに相談された方がいい様な問題を相談された時悩む事もある。
民生委員、児童委員として、援助を受けられる方の所見などの提出をし、いい知らせをもらった時は嬉しい。
依頼された時は、自分にできるだろうかと、心配と不安がありましたが「大丈夫、できる範囲で」と言われ引き受けました。
初めて訪問する時はドキドキしましたが、話をする事でとても喜んで下さったり身近な話をして話題も広がりました。又、ご自身の健康面では、体操や食事、まわりの人との会話を心掛けている等、老後について教えられる事が多かったです。
長い間勤めさせて頂いたお礼にと引き受け今日に至りました。
前人の方に聞くことが多かったです。地域の方が親切で自分が反対に助けられた気がします。「ありがとう」「又来て下さい」「大変ですね」と声をかけられ嬉しい思いでした。子供達とのふれあいにパワーをもらい楽しかったです。皆様に感謝、ありがとうございました。
父親が民生委員やっていて活動を知っていた事がきっかけ。
どこまで手助けするべきか、活動をやりすぎではないか時々考える事がある。
心配事で話を聞いて、本人が「安心しました」と言ってお礼を聞いた時は、ほっとします。なかなかありませんけど。
15年前主任児童委員のお話があり、何もわからないままお受けし、活動をスタートしました。間もなく口之津中学校の心の相談員へのお話があり、子供達のことをより知る為には、とても良いと思い受け、ほぼ同時進行で15年になります。いろんな子供達を見てきましたが、ただ寄り添うことしか出来ず、自分の無力さを感じることもありましたが、大くの子供達に関わり話が出来たり、悩みを聞いたりしてあげれてとても幸せでした。民生委員から離れても地域の子供達への見守りは続けて行きたいです。
市福祉課よりお願いされてなりました。3年目まで活動できるか心配でした。地域の人たちに力をもらいできたと思います。町内の人々から頼りにされたり、「ありがとう」と言われた時と思います。こんなに長くするとは思わなかった。
地方公務員として、地域の皆様に家族共々お世話になった為、退職後には住んでいる地域の為に何らかのお役に立てばと常々思っていたので、要請された時には、迷いなく引き受けました。
活動の中で悩んだことは、人それぞれの価値観が違うのでどの程度の距離感で対応したらいいのか最後まで悩まされました。
嬉しかったことは、行政側が私たちの要請に直ぐに対応してくれたり、慰労の言葉をかけてもらった時です。
私の担当地区は2つの地区を担当しています。最初は「私大丈夫かな」と考えたこともあります。そんな時には、いつも先輩民生委員さんに相談したり、定例会の時に話を聞いてもらったりして問題を解決してきました。これからも微力ながらつなぎ役として活動して行きたいと思っています。
町役場の担当者より、依頼があり、自分の出来る範囲内で協力しようと思って引き受けました。活動で特別に悩んだことはありません。専門職とのパイプ役と思い、相談の聞きとりを相手に不愉快を与えないように心がけつなげています。活動をする中でも嬉しかったことは、人との出逢いはうれしいことで会ったときに声かけをしてもらえるし、又私もこの仕事について、自分から笑顔でだれにでも言葉かけて、スムーズにできるようになったことです。
民生委員・児童委員となり、おかげさまで、たくさんの方々と出会う事ができました。1人暮らしの高齢者、女性の方が多いのですが、健康等の不安な毎日を過ごしていると思うのですが、「ありがとう」と言ってもらうと、逆に励まされ、勇気をもらい嬉しくなります。
きっかけ→高齢者の方々とお話をすることが大好きだった事と、住んでいる地区には数年間民生委員が不在だったこと。
悩んだこと→地区には3つの集落からなり1ヶ所に集まる事は徒歩では出来ません。それが特に高齢者の方々にとっては負担となり行事などへの不参加に繋がる。
嬉しかったこと→地区の皆さんが温かく優しい声掛けをして下さることです。
保護司など更生保護従事者として
功績顕著で、15年以上在職している方
保護司は、犯罪や非行をした人の地域における社会復帰を支える民間のボランティアです。保護観察官とともに保護観察に当たるほか、犯罪や非行をした人が刑事施設や少年院から出所する際には、釈放後の住居や就業などの調整や相談を行うといった役割を果たしており、全国で約47,000人、長崎県内で約800人が活動しています。
また、地域でさらに身近な活動を行う更生保護女性会員は、全国で約15万人、長崎県内で約3,400人が活動しています。
桜馬場2丁目自治会からの依頼を受けて、困っている人の役に立つのであればと思い引き受けました。
保護観察の活動を行う中で、質問や相談などの話はできるものの就職活動や体調不良など具体的に何かをしてあげることができないことに限界を感じた。
保護観察期間中、問題なく終了して社会に復帰してくれた時は嬉しかった。
定年を控え地元に帰った時に、保護司の先輩から後継者として、保護司を勧められ引き受けました。
16年間保護観察対象者を担当しましたが、再犯を繰り返す対象者や本音を語らない対象者を見ていると、自分の力なさを感じています。
本受賞を励みに、残り2年間の任期を全うしたいと思います。
長崎市議の任期中、知人から紹介されお役に立てればと快諾。保護司の活動に毎月の対象者との面接があるが無断欠席は常、日程調整に苦労したこと。多くの対象者に関わってきたが、見違えるように更正し巣だっていく姿に接したとき。どんな人も更正できる、犯罪を予防できる地域、社会の環境づくりが大事と痛感してます。
断り切れない性格、保護司をよく知らなかった、私にできるでしょうか?と。お聞きしお引き受けした。人が好き、目の前の困っている人を放っておけない性格。
活動で悩んだのは、対象者が約束の時間を守ってくれない時(連絡がつかない時)。約束守る人であれば犯罪はおこさないと後で気付く。
最後の11人目の方が観察期間を終えて「保護観察所所長に挨拶に行った」事を聞かされた時の驚きと感激は今も忘れません!11人の対象者の中で1番困った少年でした。
町内会長を務めていたことから、保護司に推せんされ、10年を越えて携わって参りました。途中、対象者が再犯を行った時は、自責の念にかられ、辞めようと思った事もありましたが、同じ保護司の先生方に支えて頂き、ここまでやって来ました。とても任が重い務めではありますが、今後もしっかり務めてまいります。
昭和58年より就労支援事業者機構へ参加しており、消防団退団の折、地域の有志の方々の薦めにより参加する様になり現在に至っております。
一番の思い出は、無期懲役の方の担当になり当初は往訪も来訪も戸惑っておりましたが、月日が経つにつれて「貴方の顔を見ると安心する」と言ってくれるようになりました。穏やかに日々を送っておられたところ恩赦を受けられる事となり、手続きを主任管の方々と進めていき恩赦の報告の日程を決めて伝えに行くと入院した事を知らされたので、奥様に往訪の日程を伝え帰宅しました。往訪の2日前に逝去された旨の連絡がありました。本人に伝えられなかったのが本当に残念でならなかったことが一番の思い出です。
当時の町長の勧めで承諾。研修を受ける毎に、保護司の活動範囲が広い事におどろいた。生涯、縁のないと思っていた刑務所訪問、刑期中の少年の主張大会、出所後の犯罪の類によっては(窃盗等)非常に構えてしまって面接が難しかった。社会のしくみを知り、更生にたずさわる観察所、保護司の先輩方、お勉強させていただきました。とりまく環境がいかに大事か痛感です。
佐賀県の北茂安小学校出身の市村清先生(理研光学リコーの創業者)同校出身です。小学生の頃「人間生きている限り人に尽せ」の教訓を受ける。高校卒業後海上自衛隊入隊36年。定年前に介護資格を取得、老人ホーム勤務(5年)。縁あって佐世保白雲勤務(10年)。保護司になって防犯部長の命を受け慣れない啓発活動に苦労しました。元対象者が変りなく元気でいるとの声に人生喜びを感じる。保護司定年後も人の役にと尽したい旨模索しています。「一陽来復」
地域内の先任保護司の方から引き継いで欲しいとの声かけがきっかけです。
対象者やご家族の悩みに比べれば、悩みのうちに入らないといつも思います。対象者と月2回面談しますが、それは保護観察期間終了と同時に終わります。数年後、街中で偶然会った時、笑顔で声をかけてもらえる時「今、幸せに生きてる」と言っている様で嬉しいです。
色んな職種、年齢の方が保護司として活動できる様、若年保護司の枠を増やして頂きたい。先輩保護司さんから教わることは沢山ありますが、保護司としてふさわしい方々が保護司にならないまま埋もれています。日中の研修に参加しないイコール保護司の資格無しは若年保護司には厳しいです。
先輩保護司の推薦で(5年間は更生保護女性会への入会をすすめられ)その後に保護司となる。活動で悩んだ事は一度もなく、更生をしてくれた事は喜びであり、私を卒業して社会で仕事にはげんでいる事を聞いたり、結婚の報告を受けたりする事が私にとって、とても嬉しい宝物です。
このたびは身に余る彰をいただき光栄に存じます。先輩保護司の声掛けで私でお役に立つことがあればの思いでお引き受け致しました。
戸惑いながら対象者との面接を重ね、社会復帰された時には嬉しさもひとしおでした。保護司の皆さんと活動や研修を通し、地域の安全や安心に繋がれば幸いです。
保護司は、時の会長からの勧めに素直に乗ったことから始まります。対象者を受け持つ度に、真にお役に立てていないことを痛切に感じている身でありながら、この受賞は”あいすまない”思いでいっぱいです。
でも最近「反省は一人でできても、更生の道は一人では歩めん」の言葉に出会い、更生への道を歩む方に寄り添う一人として気負わずに努めていきたいと心新たにしております。
父が保護司をしていた縁で、退職後に声がかかり引き受けました。
未成年の少年を複数担当しました。最初は話もできず悩みましたが面接を重ねるにつれ、少しずつ心を開いてくれて話ができた時はうれしかったです。みんな素直で良い子たちでした。
子供たちが事件を引き起こす要因は様々ですが、複雑な家庭環境が、影響していることが多い様に思います。
私は僧侶ですが、保護司になってすぐタイのバンコク刑務所に慰問の話があり興味本位で参加しました。その中で再犯率が3%と聞き、日本では約50%でその違いに愕然としました。刑務所の中で読み書きを習い、出所したらお坊さんにまかせ出家するのが通例との事。僧侶として頭が下がる経験をしたのがきっかけではないでしょうか。この活動ができ嬉しく思います。
今、一人の保護観察対象者を受けて、1年半、月に2回の面接も最初の頃は笑顔見られず、決まり会話で、終っていた面接も、最近では世間話、仕事の苦労、悩み(もちろん楽しいことも)等を会話する様になりました。笑顔も見られます。この月に2回の面接が、本人の心の支え・励みであればと願っています。
第二の人生として、自分が一番心を寄せていることは何だろうと、考えていた時に、知りあいの方から強い勧めがあって、入りました。楽しかった事は仲間と一緒の活動が、いろんな人の支援をうけながら、広がった時です。
平成9年頃、子供も手をとらなくなってきたので、ボランティアしない?とさそわれたのがきっかけ。
活動費の捻出に物品販売等していますが年々少なくなっているのが悩み。
研修会で九州各県をまわりました。講演会、各県毎の活動の発表会等とっても勉強になりました。
平成13年に保護司を拝命しそれをきっかけに更生保護女性会員となりました。活動に関しましては、常にこれで良いのかと悩む事ばかりです。この2年間はコロナの為訪問できておりませんが、活動の一環として更生保護施設佐世保白雲への生活用品の支援で訪問出来ました事は、私の喜びでありました。
社会福祉事業協力者等として10年以上活動されている方
社会福祉事業に直接従事しておらず、社会福祉のための労力的・経済的な協力を行っている方々をいいます。今年度の受賞者は
・福祉施設や地域のイベントでのボランティア活動
・日本語学習支援活動
・障がいのある方の社会参加の支援活動
・高齢者への会食サービス
・子育てボランティア活動
など、様々な活動を展開しています。
支援ボランティアとして、公民館講座を通して多くの人と出会い、親睦を深めながら楽しんでいる自分を感じています。また、講座をきっかけに友だち関係を築いている受講生の人たちを見ると、支援ボランティアをしてよかったと感じているところです。今回の受賞を励みとして、今後も公民館を利用する人のつながりを深めるために頑張りたいと思います。
私達「食生活改善推進員」は、食を通じた健康づくりのボランティア団体で、地域において食育推進運動を重点的に実施しております。
私達がモットーにしている「私達の健康は私達の手で~のばそう健康寿命つなごう郷土の食~」をスローガンのもとに食生活改善を健康づくりに活かすため、減塩を始め、野菜を1日350g摂取し、バランスよい食事がとれるよう、これからも普及啓発活動を行ってまいりたいと思います。
私は1994年から3年間、ベトナムホーチミン市の大学で日本語を教えました。帰国後、その経験を生かしたいと思っていたところ、大村市が開催する日本語教室で講師をすることになり、また長崎県の中国帰国者日本語学習支援事業にかかわり、それらの縁で大村市近郊に在住のALTや中国帰国者、日本人の配偶者等、日本語を母国語としない人たちの日本語学習の手助けをしてきました。人種も国籍も年代も様々な人たちと接して、刺激を受け楽しい思い出もたくさんできました。これからも私が役に立てることがあればと思っています。
今回は、活動を始めて13年目。このような名誉ある賞をいただき、本当に嬉しく思います。道のりはまだ半ばですが、メンバーみんなで一つになって、いただいた賞だと思っています。これからも、基本として直接の語り合の活動を大切にしながら、新しい文化を取り入れ、身近な学びを重ねていく決意です。
また、このたびの受賞には、私たち以上に周囲の温かいサポートがあったのも事実です。感謝を返せるような、しっかりとした活動を重ねていきたいです。これからも、みなさま応援をよろしくお願いします。
民生委員活動(2003~2016)の中で独居老人共通の悩みは、独り暮らしが寂しい・話し相手が欲しいというのが共通の悩みでした。この共通の悩みを解決できるのはその寂しい人達が一堂に会することだと考え、集まり易い町内の公民館を利用し、集める呼び水として手作りの昼食を準備し食事を囲んでのお喋りの場を提供することで、ひと時であれ解消されるのではないかと2010年に発足。
活動開始時の資金不足(食材費のみ町内会助成)調理器具や食器塁調達に苦労した。
嬉しかったことは、①この会の趣旨に賛同し料理のボランティア(殆ど町内の男性)の協力が得られたこと②お年寄りのひとたちが喜んで参加してくれること③市福祉協議会ボランティアセンターが食前・食後のレクリエーションに協力してくれること(健康体操等)。
長崎県においてリウマチに関する啓発リウマチ対策の確立と推進に関する事業を行い、リウマチ性疾患を有する者の福祉の向上に寄与することを目的としています。長崎支部は本年創部45周年です。
年二回リウマチ医療講演会を開催しています。一般公開で、入場料不要ですが広報の難しさを感じています。
講演会後にリウマチのことが分からなくて不安に思っていたがよく分かりこれからの療養の励みに成ると聞かされたときに喜びを感じます。
県内には約8000人のリウマチ患者が居るといわれていますが離島の多い本県で症状で悩んでいる患者に日本リウマチ友の会の存在を知っていただきたい。「日本リウマチ友の会はみなさんの心強い支えとなります」
絵本の読み語り活動を始める前は、人前で絵本を語るなんてはずかしい、てれると思っていましたが、始めてみると意外に楽しく子供たちの笑顔や笑い声を聞くと元気をもらいます。コロナ禍でイベントも減りました。そんな中で気づいた事は、読み語りボランティアをやっていたつもりでしたが、実は子供達から活動できる場を与えてもらっていたのだなあ…と改めて皆様に感謝しかない思いです。
活動を始めるきっかけは、約30年前、幼稚園のPTA役員の企画で、子供達に人形劇を披露する機会があり、先生方にも好評で卒園後も声を掛けて頂き、また口コミで他からも依頼が増え「人形劇ゆでぴー」としてグループを結成し、活動開始となりました。
活動を続ける中で嬉しい事は何よりも子供達の反応です。楽しい話では大声で笑い、恐い動物の登場で泣き、表情や声で感情を素直に表してくれる事です。
また終演後に人形達との触れ合いを行っていて、その際の子供達の「ありがとう」「おもしろかった」等笑顔と共に話してくれる事が”次回も頑張ろう”という私達の励みになっています。
長崎県社会福祉協議会が行う事業等にご協力をいただいた
企業・団体様に感謝状を贈呈しております。
地域福祉への貢献を目的に、平成8年から毎年実施されている「チャリティヤクルト募金運動」。
県内のヤクルトレディが売り上げの一部を寄付するセットを販売され、高齢者施設及び本会へご寄付をいただきました。
地域福祉の貢献を願い「愛の訪問活動」(一人暮し高齢者宅訪問)や「高齢者見守りネットワーク活動」等、努力してまいりました。
今後も福祉充実の一助になればと、微力ながら地域社会貢献を目指します。
同基金は、昭和57年の長崎大水害の際、全国から届けられた見舞金を基にして創設されました。
これまで県内の在宅福祉の推進のために58台の車両を寄贈され、本会はそのコーディネートを行っています。
寄贈車両は、それぞれの地域で在宅福祉・地域福祉活動に活用されています。
これまで40年余り老人福祉団体への寄附活動を行って参りました。今後とも長く続けていきたいと思います。